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分析と爆発のあいだ

青春とは、"時間が足りないこと"である。

とある縁で、母校の中高生の面倒を見ている。その中の一人に、結構な頻度で遅刻をする子がいる。高1で、塾に部活に忙しい。そしてバンドのギタリスト。「部活が長引いてしまったので遅刻します!ごめんなさい!」「電車寝過ごしてちょっと遅れそうです......いつも遅れてばっかりですみませんm(__)m」などとLINEを送ってくる。決して彼をあげつらってけちょんけちょんに批判したいわけではない。むしろ無性に彼のことを応援したい気持ちになる。彼と接していると、なんだか高1の僕を見ているような気分になるのだ。

ここからは、僕がナメられている可能性は(この文章の構成と僕の精神衛生上の問題から)とりあえず考えないこととしよう。

高1の僕も、ものすごく忙しかった。それこそ今の彼とまったく同じように部活・塾・バンドを掛け持ちしていた。その頃の僕の口癖は「ああ、時間がない」。親に誕生日プレゼントの希望を聞かれ「時間が欲しい」と答えて呆れさせた記憶がある、高校の授業では連日の疲れと睡眠不足からか爆睡していた。1限で寝落ちして、起きたら3限。教壇に立つ教師が変わっている......2限どこ行った?登下校の時間も貴重な睡眠時間。JRで30分。集中して寝る。もちろん寝過ごす。

しかし高1の僕は果たして本当に「忙しかった」のだろうか?おそらく答えは「NO」なのだ(高1の僕、ごめん)。塾は火土、部活は火木土、バンドは2週に1回。つまり月水金日がほとんどフリー。そして僕の母校は6限が14時半に終わり(!)、終礼がない(!!)、だから平日も週3で14:30から自由時間だった。客観的にみると、当時の僕は今よりもずっと時間的に余裕があったはずだ。つまりそれでも「忙しい」と感じていた理由があるのではないか?では、その「時間を食いつぶしていたもの」の正体は何だろう。

それこそが「青春」じゃないかと思うのだ。ここでいう「青春」は女の子とイチャイチャすることだけではない(そもそも男子校にはそういう類の「青春」は存在しないのだが)。将来の展望を思いふける。個性を探して途方に暮れる。友と語り合う。親や周りの大人に意味もなく反発してみる。全部「青春」だ。僕(たち)はきっと「青春」に忙しかったんだと思う。

「青春って、すごく密なので」(第104回 夏の甲子園 優勝監督インタビュー)

仙台育英の須江監督は、「青春」についてこんな表現を用いた。「密」だという理由で「青春」が高校生から取り上げられてしまう。修学旅行も卒業式も中止......感染対策としてはある程度合理的で仕方のないことなのかもしれない。でも、できることなら少しでも「青春」を味わせてあげたい、そんな想いが感じ取れる。コロナ禍における大人の心構えとして、そして何より「青春」の新たな定義づけとして、これ以上ないくらい素晴らしい。いや、コロナ禍でなくとも通用するだろう。青春とは、"すごく密なこと"である。自粛・制限続きで今にもはち切れそうな若者の生気・熱気が詰まった至言だと思う。


僕も彼に倣って、こんな風に「青春」を定義づけしてみたい。

「青春とは、"時間が足りないこと"である」

物理的に時間が足りないわけではない。なのになぜか「時間が足りない」のだ。サボりたいわけではない。だけどサボらないと「青春」はどこかにいってしまうのだ。迫りくる時間が僕たちを焦らせる。当時はそれを嘆いていた。時間の過ぎ去く速さ、自分の愚鈍さに悶えた。でも、今ならわかる。それも含めてぜんぶ「青春」だったのだ。

遅刻ばかりの彼と、時間が足りないと嘆いたあの頃の僕に、こう声を掛けたい。

「青春してるね!」



(2022/10/04)